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ほぼ予定通りに比較的大きな規模のウォーターフォール型プロジェクトが終了した(とされた)例をいくつか見ていますが、下記のような流れでした。
BI~BDはエンジニアの埒外で実施され、基本的に過去の例の焼き直しに最低限の追加だけで要件が詰められていない。FDはさすがに上級エンジニアが作成に参加しているが、不完全なBDを元にしているのでそれに従えばゴールだとは誰も思っていないが口には出さない。DDは下請けが納入ドキュメントを作成する(でっち上げる)作業であって製造のための詳細設計ではない。Mの段階でも下請けは出来上がるものは見えていないが単体
元コメント投稿者です。興味を持たれたようですので、なぜそのような旧態然とした仕組みが生き延びているかについて自分の考えを捕捉します。
まず認識の問題としてわたしは80年代当時と同じものが今も現実として展開していると捉え、その事実が今後も安定的であるとは思わない方がいいと考えています。同じIT系大企業でもビジネスの対象、規模、速度は違っていますし、商品としてのITシステムの構成要素、成り立ちも大きく変わっています。
プロジェクトの管理手法というものはビジネス全体を満足させるための手段で、組織の上部、ビジネスの構造の高い次元から位置づけられるものと考えています。その視点からは商品としての価値、品質を確保できるかどうかが判断の基準であり、それを満たしている限り、また競合他社との競争上重要でない限りは投資対象外としてよいことになります。つまりビジネスの観点からは要求される水準を満たし続けていたのでそのままにされていたということだと思います。
こちらは技術系サイトですので、ビジネス上それが重要でなかったことの考察は脇に置いておいて(実際にはそちらの要因が大きかったと思うのですが)、プロジェクト運営上、品質確保を行う上で投資の必要がなかった理由についてだけ述べます。
技術的には80年代から現在にかけてIT企業のビジネスに要求される速度は増し、技術的にも要求される知識や技術の量などは増していきましたが、それに対応できる人材が常に供給され続ける状況でした。その期間は家庭にPCが普及し、先進的なデバイスであるコンピューターが若者に注目され、自発的に学習し、技術を習得した若者が自然に生み出されていく時代とちょうど重なっています(おそらくその前は車、バイク、電子機器(無線、電子工作)が同様であったことでしょう)。つまりIT系企業にとって人材に関する状況は好転の一途で、最新の技術を既に習得した人材の確保が容易であったため、その人材の活用法に対して投資しなくても商品の品質を損なうような事態にはならなかった事が技術的な面での理由であったと思います。
もちろんこのよい状況は、最も身近なコンピューターが携帯電話である世代からすでに終息の方向に進行していますが、本当に致命的になるのはまだ遠い未来の話です。COBOLプログラマーの雇用延長の話題などで先例がありますが、やろうと思えば既に雇用されている既存の労働者にこの先20~30年程度は同じ仕事をさせ続けることができるからです。
精神的、文化的な側面についてはマスコミで作られた言葉から「新人類」という既存の人間とは同じ扱いができない人間が生まれたような言葉を用いられていますが、企業経営、労務管理の視点からは、社会に出て生活のために自ら働く必要があるという事実に接しただけで前世代と同様の労働者として振る舞い、収入の量に対する意欲も十分あった「新人類」というのは特別に扱う必要があるような人種ではなかったと思います。
しかしながら新しい状況への対応は歴史がない新しい企業においては必須となりますので、日本においてもIT業界の歴史からすればようやく現れてきている新しいIT系企業、ネット系企業と呼ばれるような企業においては、より先進的なビジネス、プロジェクト管理、労務管理が行われているのではないかと思います。
個人的にはそう期待しているのですが、伝え聞く話では企業として歴史が浅く規模が小さいと無管理(よくできていても管理者個人の能力にしか依っていない)、もしくは旧態然とした日本の企業の管理システムのコピーであることが多いです。
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日本的ウォーターフォール開発の実際 (スコア:2, 興味深い)
ほぼ予定通りに比較的大きな規模のウォーターフォール型プロジェクトが終了した(とされた)例をいくつか見ていますが、下記のような流れでした。
BI~BDはエンジニアの埒外で実施され、基本的に過去の例の焼き直しに最低限の追加だけで要件が詰められていない。
FDはさすがに上級エンジニアが作成に参加しているが、不完全なBDを元にしているのでそれに従えばゴールだとは誰も思っていないが口には出さない。
DDは下請けが納入ドキュメントを作成する(でっち上げる)作業であって製造のための詳細設計ではない。
Mの段階でも下請けは出来上がるものは見えていないが単体
Re: (スコア:0)
日本的ウォーターフォールは、ある程度、洗練され機能していると見た方がいいのかもしれませんね。
当時も、今の方法は新人類には通用しないだろう的なことが言われていました。
新人類も今じゃ40代後半?
Re:日本的ウォーターフォール開発の実際 (スコア:0)
元コメント投稿者です。
興味を持たれたようですので、なぜそのような旧態然とした仕組みが生き延びているかについて自分の考えを捕捉します。
まず認識の問題としてわたしは80年代当時と同じものが今も現実として展開していると捉え、その事実が今後も安定的であるとは思わない方がいいと考えています。同じIT系大企業でもビジネスの対象、規模、速度は違っていますし、商品としてのITシステムの構成要素、成り立ちも大きく変わっています。
プロジェクトの管理手法というものはビジネス全体を満足させるための手段で、組織の上部、ビジネスの構造の高い次元から位置づけられるものと考えています。その視点からは商品としての価値、品質を確保できるかどうかが判断の基準であり、それを満たしている限り、また競合他社との競争上重要でない限りは投資対象外としてよいことになります。つまりビジネスの観点からは要求される水準を満たし続けていたのでそのままにされていたということだと思います。
こちらは技術系サイトですので、ビジネス上それが重要でなかったことの考察は脇に置いておいて(実際にはそちらの要因が大きかったと思うのですが)、プロジェクト運営上、品質確保を行う上で投資の必要がなかった理由についてだけ述べます。
技術的には80年代から現在にかけてIT企業のビジネスに要求される速度は増し、技術的にも要求される知識や技術の量などは増していきましたが、それに対応できる人材が常に供給され続ける状況でした。
その期間は家庭にPCが普及し、先進的なデバイスであるコンピューターが若者に注目され、自発的に学習し、技術を習得した若者が自然に生み出されていく時代とちょうど重なっています(おそらくその前は車、バイク、電子機器(無線、電子工作)が同様であったことでしょう)。
つまりIT系企業にとって人材に関する状況は好転の一途で、最新の技術を既に習得した人材の確保が容易であったため、その人材の活用法に対して投資しなくても商品の品質を損なうような事態にはならなかった事が技術的な面での理由であったと思います。
もちろんこのよい状況は、最も身近なコンピューターが携帯電話である世代からすでに終息の方向に進行していますが、本当に致命的になるのはまだ遠い未来の話です。COBOLプログラマーの雇用延長の話題などで先例がありますが、やろうと思えば既に雇用されている既存の労働者にこの先20~30年程度は同じ仕事をさせ続けることができるからです。
精神的、文化的な側面についてはマスコミで作られた言葉から「新人類」という既存の人間とは同じ扱いができない人間が生まれたような言葉を用いられていますが、企業経営、労務管理の視点からは、社会に出て生活のために自ら働く必要があるという事実に接しただけで前世代と同様の労働者として振る舞い、収入の量に対する意欲も十分あった「新人類」というのは特別に扱う必要があるような人種ではなかったと思います。
しかしながら新しい状況への対応は歴史がない新しい企業においては必須となりますので、日本においてもIT業界の歴史からすればようやく現れてきている新しいIT系企業、ネット系企業と呼ばれるような企業においては、より先進的なビジネス、プロジェクト管理、労務管理が行われているのではないかと思います。
個人的にはそう期待しているのですが、伝え聞く話では企業として歴史が浅く規模が小さいと無管理(よくできていても管理者個人の能力にしか依っていない)、もしくは旧態然とした日本の企業の管理システムのコピーであることが多いです。
Re: (スコア:0)
「ドタバタ喜劇」的仕事のやり方は、全然変わっていない。
だから「今が変化点」かというと、ちょっと違う気がする。かといって昔に変化点があったとも思わない。
おっしゃる通り、IT産業がジリ貧な市場であることは確かで、産業自体のしぼむ速度が「ドタバタ喜劇」で
致命的失敗が目に見えるようになるよりも早いと思います。
きちんとしたプロジェクト管理は今後ますます必要ですが、しぼむ速度としぼんだ先を見据えられないと、
過大な管理システムばかりが残りそう。