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LinuxBIOS is a Free Software project aimed at replacing the proprietary BIOS (firmware) you can find in most of today's computers.
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一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy
「思想的にフリーな」とは (スコア:0)
「fat-free」のような意味での「フリー」,つまり「思想がない/特定の思想に縛られない」ということでしょうか?
しかし,「プロプライエタリなファームウェア」は「儲かれば思想なんかどうだってよい」わけで(間違ってる?), 「思想的にフリーな」ことを指向しているLinuxBIOSの方がよほど「思想に縛られている」ように思えます. 「思想なんかどうてもよいファームウェアを『思想に縛られない』という思想に縛られているファームウェアで置き換える」ことの意義とは何でしょうか?
それともこの「思想的にフリーな」という表現は,「理論的に可能な」のような用法(「現実的には不可能な/困難な」ことを含意)で 用いられていて,「思想的にフリーな」とは「実践的には/実業的には/現実的にはフリーでない」ことを意味するのでしょうか?
それとも,もしかして「プロプライエタリなファームウェアをフリーなファームウェアに思想的に置き換える」ってことでしょうか?
Re:「思想的にフリーな」とは (スコア:1, 参考になる)
LinuxBIOS のサイトに
とありますが、このように大文字で "Free Software" と書く場合には "Free" という言葉に FSF の定義する Free [fsf.org] の意味をこめていると解釈できます。
・・・というのは常識の範疇の知識かと。
あなたがその思想に賛同しなくても、言葉の意味くらいは知っていてもいいと思いますよ。
Re:「思想的にフリーな」とは (スコア:2, 参考になる)
GNU/FSFの精神的な歴史=そもそもMIT AI LABに住み着いていたRichard M. Stallmanの経験に基づく思想史的な側面が強いので、紋切調に説明するには非常に難しい部分があると思うのですが、
Free as Freedom!
と言う90年代に入る前後のGNU関連のソフトウェアなどのドキュメントの記述の終わりに良くあった言葉が象徴していると思います。
Free as in Freedom (スコア:0)
程度の意味だと思ってました。