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LinuxBIOS is a Free Software project aimed at replacing the proprietary BIOS (firmware) you can find in most of today's computers.
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長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds
「思想的にフリーな」とは (スコア:0)
「fat-free」のような意味での「フリー」,つまり「思想がない/特定の思想に縛られない」ということでしょうか?
しかし,「プロプライエタリなファームウェア」は「儲かれば思想なんかどうだってよい」わけで(間違ってる?), 「思想的にフリーな」ことを指向しているLinuxBIOSの方がよほど「思想に縛られている」ように思えます. 「思想なんかどうてもよいファームウェアを『思想に縛られない』という思想に縛られているファームウェアで置き換える」ことの意義とは何でしょうか?
それともこの「思想的にフリーな」という表現は,「理論的に可能な」のような用法(「現実的には不可能な/困難な」ことを含意)で 用いられていて,「思想的にフリーな」とは「実践的には/実業的には/現実的にはフリーでない」ことを意味するのでしょうか?
それとも,もしかして「プロプライエタリなファームウェアをフリーなファームウェアに思想的に置き換える」ってことでしょうか?
Re:「思想的にフリーな」とは (スコア:1, 参考になる)
LinuxBIOS のサイトに
とありますが、このように大文字で "Free Software" と書く場合には "Free" という言葉に FSF の定義する Free [fsf.org] の意味をこめていると解釈できます。
・・・というのは常識の範疇の知識かと。
あなたがその思想に賛同しなくても、言葉の意味くらいは知っていてもいいと思いますよ。
Re:「思想的にフリーな」とは (スコア:2, 参考になる)
GNU/FSFの精神的な歴史=そもそもMIT AI LABに住み着いていたRichard M. Stallmanの経験に基づく思想史的な側面が強いので、紋切調に説明するには非常に難しい部分があると思うのですが、
Free as Freedom!
と言う90年代に入る前後のGNU関連のソフトウェアなどのドキュメントの記述の終わりに良くあった言葉が象徴していると思います。
「自由である自由」--日本語にするとまったくわけわかめになりますが、Freedomと言う言葉が南北戦争や黒人公民権運動のみならず、フランス革命以降の欧米の「自由」「民主主義」を求め・維持する精神を象徴する意味合いが強い英単語ですから、「自由を獲得・維持することの自由」と言う感じの言葉に置き換えれば良いのでしょうか。
つまりは、「自由は受け取っているだけではどこかにいなくなるから、自由を維持するには自分自身が自由であるために必要な努力が必要だよ」と言う非常に精神論的かつ政治的な言葉に繋がります。
だからこそ、逆にFSFやRMSはソフトウェア特許やDRMなどと言う、「(ソフトウェアや電子情報の世界において)自由を縛る=個人の自由権を脅かす存在」に対して非常に神経質であるし、個人的にはそういうあたりが好きで末席を汚して関わってるのでありますが。
Free as in Freedom (スコア:0)
程度の意味だと思ってました。