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私はプログラマです。1040 formに私の職業としてそう書いています -- Ken Thompson
「思想的にフリーな」とは (スコア:0)
「fat-free」のような意味での「フリー」,つまり「思想がない/特定の思想に縛られない」ということでしょうか?
しかし,「プロプライエタリなファームウェア」は「儲かれば思想なんかどうだってよい」わけで(間違ってる?), 「思想的にフリーな」ことを指向しているLinuxBIOSの方がよほど「思想に縛られている」ように思えます. 「思想なんかどうてもよいファームウェアを『思想に縛られない』という思想に縛られているファームウェアで置き換える」ことの意義とは何でしょうか?
それともこの「思想的にフリーな」という表現は,「理論的に可能な」のような用法(「現実的には不可能な/困難な」ことを含意)で 用いられていて,「思想的にフリーな」とは「実践的には/実業的には/現実的にはフリーでない」ことを意味するのでしょうか?
それとも,もしかして「プロプライエタリなファームウェアをフリーなファームウェアに思想的に置き換える」ってことでしょうか?
Re:「思想的にフリーな」とは (スコア:1, すばらしい洞察)
「プロプライエタリなファームウェアをフリーなファームウェアに置き換える」
という「強い思想」を感じる。
「GNU≠Linux」と解釈するにしても、早く「フリー」のいい日本語訳を見つけないと、
イタい人たち同士による不毛な内部抗争が始まっちゃうんじゃないの?
不毛な論争が続く間は、メーカーや企業は使用を控えてしまい、単にマニアのオモチャ
にしかならない気がする。