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読み・書き・そろばん、社会(地理・法律・道徳)、科学、体育、芸術、もう一度内容を見直しても良いのでは?少なくとも、草書を読まず・古式字体を扱わず・当時の発音を無視する古文(漢文は多分中等教育まででは扱わないだろうし、当時の発音を無視するなら、英会話も不要となる)は無意味だし、近代史より前の歴史も不要、地理も成人した頃には変わっていたという笑えない話が。数学・科学についても相当の整理が可能では?鉄棒・跳び箱なぞ何の役に立つ。(マット運動は受け身の基礎)
>少なくとも、草書を読まず・古式字体を扱わず・当時の発音を無視する古文(漢文は多分中等教育まででは扱わないだろうし、当時の発音を無視するなら、英会話も不要となる)は無意味だし、近代史より前の歴史も不要、地理も成人した頃には変わっていたという笑えない話が。
古文は小学校ではやらないわけだけど、中等教育には古文・漢文ともに不要という意味?古文、漢文は英米教育でのラテン語、ギリシャ語みたいなもので、現代の言葉や思想に直接つながっているし、歴史的な意味も大きいので、読めるようになっておくのは一般教養の教育という観点で重要だと思います。一方、英会話教育にも、とくに米式発音にこだわるいまの学校英語の教育にも私は反対です。学校教育としては、英語は読み書きをしっかりやれば十分。どうせインド人や中国人の発音はヤンキーたちとは全然違うし。読み書きできれば、会話なんて(必要なら)すぐにできるようになります。中世以前の歴史や地理は、大きな流れや概念を理解しておくのは意味があるんじゃないかな。
中世以前の歴史や地理は、大きな流れや概念を理解しておくのは意味があるんじゃないかな。
一般人にとって歴史教育が役立つのは、偏にどうすれば勝ち組・負け組となるか、どの人が与するべき勝ち組・与せざるべき負け組となるのかと云う、古今東西普遍の人生訓を学ぶ事にある。日本の歴史教育には、戦訓が殆ど出てこない事よりも明らかな様に、この観点=一般人にとっての実用性が完全に欠如している。つまりリストラの対象とすべきであると云う事。
受けた教育をどう身につけて応用するのかは、受けての状況や能力にも依存するしね。
結局のところ、まともに教育を受けなかったのでしょう。
「過去をより遠くまで振り返る事が出来れば、未来をより遠くまで見渡す事が出来る」「歴史から教訓を学ばぬ者は、過ちを繰り返して滅びる」「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」カール・ハインリヒ・マルクス「三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、闇の中にいよ、その日その日を生きるとも」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「故(ふる)きを温めて新しきを知る、以て師と為(な)るべし」孔子「歴史の勝者に学ぶ」ニッコロ・マキャヴェッリ「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン
何れも日本の義務教育・高等学校教育で評価される年号と固有名詞と一般名詞でなく、歴史の因果を学び、その応用の大切さを説いている。そう云う格言を選んだ嫌いはあるが、それより歴史の年号と固有名詞と一般名詞(≒教養)を大事にせよなどと云った格言は、目にした事はない。それらを思いっ切り俗っぽい言い方にすれば「一般人にとって歴史教育が役立つのは、偏にどうすれば勝ち組・負け組となるか、どの人が与するべき勝ち組・与せざるべき負け組となるのかと云う、古今東西普遍の人生訓を学ぶ事にある」となる。これは記述式テスト問題を作り、評価できない、日本の歴史義務教育~大学入試の欠陥を如実に示しており、それ等の実用性の無さとリストラの必要性を示している。
序でに、「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話以外の何ものであろうか」ナポレオン・ボナパルト最後に日本の社会・国語の義務教育~大学入試では決して教えられない名言、「君主が怖れるべきことが二つある。国民による謀反と、他国からの攻撃である。他国からの攻撃を防ぐには、軍備を整え、良き同盟国を持つべきである」ニッコロ・マキャヴェッリ
なんか説教くさいビジネス書みたい。
あれも大量に発行されているけれど、決定版みたいのが出ないのは、「古今東西不変の人生訓」とやらが存在しないことの証左なんじゃあるまいか。
説教くさいビジネス書の決定版が無い事を非難するのではなく、柳の下から泥鰌(ドジョウ)が何百匹採っきても、「古今東西不変の人生訓本」市場が飽和しない事を評価するべきだ。
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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家
初等中等教育までの内容のリストラ (スコア:0)
読み・書き・そろばん、社会(地理・法律・道徳)、科学、体育、芸術、もう一度内容を見直しても良いのでは?
少なくとも、草書を読まず・古式字体を扱わず・当時の発音を無視する古文(漢文は多分中等教育まででは扱わないだろうし、当時の発音を無視するなら、英会話も不要となる)は無意味だし、近代史より前の歴史も不要、地理も成人した頃には変わっていたという笑えない話が。
数学・科学についても相当の整理が可能では?
鉄棒・跳び箱なぞ何の役に立つ。(マット運動は受け身の基礎)
Re: (スコア:1)
>少なくとも、草書を読まず・古式字体を扱わず・当時の発音を無視する古文(漢文は多分中等教育まででは扱わないだろうし、当時の発音を無視するなら、英会話も不要となる)は無意味だし、近代史より前の歴史も不要、地理も成人した頃には変わっていたという笑えない話が。
古文は小学校ではやらないわけだけど、中等教育には古文・漢文ともに不要という意味?
古文、漢文は英米教育でのラテン語、ギリシャ語みたいなもので、現代の言葉や思想に直接つながっているし、歴史的な意味も大きいので、読めるようになっておくのは一般教養の教育という観点で重要だと思います。一方、英会話教育にも、とくに米式発音にこだわるいまの学校英語の教育にも私は反対です。学校教育としては、英語は読み書きをしっかりやれば十分。どうせインド人や中国人の発音はヤンキーたちとは全然違うし。読み書きできれば、会話なんて(必要なら)すぐにできるようになります。
中世以前の歴史や地理は、大きな流れや概念を理解しておくのは意味があるんじゃないかな。
Re: (スコア:0)
中世以前の歴史や地理は、大きな流れや概念を理解しておくのは意味があるんじゃないかな。
一般人にとって歴史教育が役立つのは、偏にどうすれば勝ち組・負け組となるか、どの人が与するべき勝ち組・与せざるべき負け組となるのかと云う、古今東西普遍の人生訓を学ぶ事にある。
日本の歴史教育には、戦訓が殆ど出てこない事よりも明らかな様に、この観点=一般人にとっての実用性が完全に欠如している。
つまりリストラの対象とすべきであると云う事。
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:0)
受けた教育をどう身につけて応用するのかは、受けての状況や能力にも依存するしね。
結局のところ、まともに教育を受けなかったのでしょう。
Re:初等中等教育までの内容のリストラ (スコア:0)
「過去をより遠くまで振り返る事が出来れば、未来をより遠くまで見渡す事が出来る」「歴史から教訓を学ばぬ者は、過ちを繰り返して滅びる」「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル
「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」カール・ハインリヒ・マルクス
「三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、闇の中にいよ、その日その日を生きるとも」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
「故(ふる)きを温めて新しきを知る、以て師と為(な)るべし」孔子
「歴史の勝者に学ぶ」ニッコロ・マキャヴェッリ
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン
何れも日本の義務教育・高等学校教育で評価される年号と固有名詞と一般名詞でなく、歴史の因果を学び、その応用の大切さを説いている。
そう云う格言を選んだ嫌いはあるが、それより歴史の年号と固有名詞と一般名詞(≒教養)を大事にせよなどと云った格言は、目にした事はない。
それらを思いっ切り俗っぽい言い方にすれば「一般人にとって歴史教育が役立つのは、偏にどうすれば勝ち組・負け組となるか、どの人が与するべき勝ち組・与せざるべき負け組となるのかと云う、古今東西普遍の人生訓を学ぶ事にある」となる。
これは記述式テスト問題を作り、評価できない、日本の歴史義務教育~大学入試の欠陥を如実に示しており、それ等の実用性の無さとリストラの必要性を示している。
序でに、「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話以外の何ものであろうか」ナポレオン・ボナパルト
最後に日本の社会・国語の義務教育~大学入試では決して教えられない名言、「君主が怖れるべきことが二つある。国民による謀反と、他国からの攻撃である。他国からの攻撃を防ぐには、軍備を整え、良き同盟国を持つべきである」ニッコロ・マキャヴェッリ
Re: (スコア:0)
なんか説教くさいビジネス書みたい。
あれも大量に発行されているけれど、決定版みたいのが出ないのは、「古今東西不変の人生訓」とやらが存在しないことの証左なんじゃあるまいか。
Re: (スコア:0)
説教くさいビジネス書の決定版が無い事を非難するのではなく、柳の下から泥鰌(ドジョウ)が何百匹採っきても、「古今東西不変の人生訓本」市場が飽和しない事を評価するべきだ。